成就と果因説と真理と

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ここんとこ、「成就」という言葉が気になっていて・・・
神語を自分に語るとき
「私」は神だから大成就している。 「私」は神だから絶対大丈夫 と言っておりましたら、、、

"
今自分が現実面で抱える問題、心の中の荷物は、 本質の「私」の世界では、常にどれも
完璧に解決、改善されている、つまりすべては大成就している
よって
本心から見れば、何も思い煩う必要はない。 あるのは喜び、幸せのみ。"

なんて思いました。 これが、おまかせ・全託なのかな・・・・ 真理は深いぜ どこまでも。。。。

で、
そう思っていましたら、、、

 本来「私」は、すべて成就している、完成している・・・ことを信じる気持ちが浅くて、中途半端な感じがしました。
この信じる気持ちを深めるためにも、神語は欠かさず続けていかねば・・・です。
さらに、
これから、祈り、印 の時には、もっと自分は大成就しているパーフェクトな存在 と
思って、その気になって (今の現状はさておき)
 やった方がいいようだ・・・と思いました。 

以前にも載せたと思うのだけど、 読んでいたら面白かったので もう一度☆

『瞬間』の真理

 『神人たる者は、自らを神であると認めた瞬間、神のような創造者に立ち返るのである。』(2001-3)
『自らが自らを神と認めた瞬間、神と成るのです。』(白光1999-4)

『本来、祈った瞬間もうそれは成就されていると知ることです。なぜならば本来、人間の願いはすべて成就されているものだからです。』(1999-6)

『この印を組んでいる瞬間こそ、現象界より抜け出し、神の大いなる平安と祝福の中におり、宇宙神の光を今生に降ろしているのです。』(1996-7)
                                ※

 因果説によると、何かを成就するには長年の努力が必要になる。まして、神に成るには無限に近い努力が要求される。
ところが、果因説の世界は違う。時間的経過とか努力の積み重ねるプロセスや、艱難辛苦のプロセスは必ずしも必要ではない。ただし、果因説を体得するまでのリハビリ期間は必要である。

 言霊で宣言する、印を組むと言うことは既に神の創造活動なのである。それは空即是色の行為なのである。それは因縁因果の人生を手放して、本来因果を呼び込む全託の行為である。つまり、祈り印を組む者は果因説に徹することである。

 「まだまだ修行が足りない」などと言う言葉は果因説にはない。修行の足りない自分とは別に『厳然と存在する』、尊敬に値する神そのものの自分を認めるのである。そこから、毎瞬スタートするのである。「まだまだ」ではい、「もう既に」自分は神そのものなのである。自分は「そもそも」神そのものなのである。

 21世紀、「まだまだ修行が足りない」という言葉は謙虚さの表れではない。先ず初めに、現象の姿はともかく、自分自身のことを『我即神也』と認めるのである。自分自身を敬い、尊び、礼賛するのである。そして、法則によってその通り、敬うべき神の姿を顕現して行くのである(注1)。

何故、冒頭に見たように、西園寺会長は『瞬間の真理』を繰り返し説かれたのか。
『瞬間の真理』はすべて果因説なのである。
我々が真理の世界に入り、真理の世界を現象界に呼び込むのに必要なのは、自己意識を変えさえすればいいのである。
完全平和、調和、幸せ、健康、繁栄も既に確立されているのである。『厳然として存在する自分自身の本心』はすでに神そのものであって、平和、調和、幸せ、健康、繁栄を成就しているのである。
必要なのはこの真理を追認することだけである。追認できない古い思考回路が邪魔をしているだけである。浄めなければならない悪因縁が邪魔をしているわけではない。果因説の思考回路に慣れないだけである。
誰であろうが、自分を神と認めた瞬間、因縁因果を超えて、その人は神なのである。

注1 『人類はみな自分自身のことを
    敬い 尊び 礼賛する心をもって扱うならば
    自らは自らが礼賛した通りのものとなる
    
    自らを敬い 尊び 礼賛するところに
    癒しの力は無限大に働く』       
白光誌2000-3インフィニット・ワーズ

                             ※

西園寺会長は「時間は未来から流れてくる」(注3)と言われる。時間の逆回転と言うのは難解な言い回しだ。因果の世界では、時間は過去から現在、そして現在から未来へと流れる。それと果因説の神性顕現とは別物であると言った方が理解しやすい。

因縁因果が浄化され、良くなって神性顕現が始まるという考え方は因果説の考え方である。それとは異なった次元で、神性顕現は始まると言うことだ。砂上の楼閣を築く場と「神の楼閣を築く」場は全く異なる異次元なのである。それは本来因果、空即是色、神の創造が行われる場である。

目覚める前の人はカルマの流れの中に入る。我々が『我即神也』に目覚めた瞬間、今までのカルマがどうであれ、我々は神としての創造者そのものだ。目覚めるとは『自分が神であると思い出すことであり、神であると認めることである』。
目覚めると言う変化は物質界の変化ではなく、意識・自己認識の変化である。

創世記にあるように、神の創造は言霊の創造である。自分の神性イメージを言葉で讃え、讃えたとおりの姿を物質化するのである。神意識を現実化するのである。これが我々の天命である。これが未来から時間が流れてくるという言い回しの意味である。現実が変化し始めると、未来の可能性がやって来たように感じるということだ。

自分は神であると意識しながら言葉を語るのだ。
自分の言葉が現実を創造すると意識しながら言葉を語るのだ。
自分の言葉のすべてが現実化するのであれば、最高の言葉を語るのだ。
神語を語るのだ。

注1  白光1998-2
注2  白光2008-4 P.9-10
注3  2010-4
『私』はすべての人の本心、神の『私』

mixiピタゴラスさん


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by mppoe-light | 2011-07-01 22:04 | ピタゴラスさん啓示録から