すべて大成就している・・・

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何が本質で何が消えてゆく姿の現象か・・・

本質の神様側の意識を選択し、祈り印を組み宣言すると、
果因説が働き始める。

「私」はどこであろうと、肉体を持ったまま神の姿を顕すばかり。「私」には過去はなく、
カルマもない。 「私」が描く世界が、五井先生の説かれた世界。
「私」は言霊を使って自在に光を形に現わす。 「私」は神だから自由自在。神の光には限りがなく、遮るものがない。


神意識は真の眼力で、人の大成就した姿 人類即神也 を観る
本来、どんな人も神からきている。本質は大成就している。

神様は常に大成就、完全円満、。
その神さま側の 我即神也は、完全円満の世界を形の世界に導き降ろす。
神の世界を顕現する。

カルマが創った場であろうと、「私」は何でも創造できる、自由に創造できる。
「私」は世の光。人の心の神性を照らす光である。


だから、 
過去もカルマもなく、欠けたるものもない神である「私」には、
あるのは 絶対大丈夫、絶対大成就のみ。

と、思いながら・・・・

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mixiピタゴラスさん

絶対大丈夫

『絶対大丈夫と言う言葉は、その言葉自体が宇宙神の御心そのままであるのです。したがってこの言葉を通してこの世に発信すると宇宙神が思っていることそのものが、その言葉を通して成就されるのであります。したがって魂をこめて祈り、絶対大丈夫と唱える事で、前より、今まで生きてきた以上に、素晴らしい未来が作られるのであります。』

『絶対大丈夫という思いと、祈りと印で光は必ず降りてきます。そしてこの光を降ろすことで、そこの場を光で満たすことができ、すべて宇宙神の御心通りに整いはじめ、成就し始めるのです。場が変わり、皆が変わっていくのです。』 (2011/04/01)

                        ※

「絶対大丈夫」という宇宙神の御心の響きによって、因果律を越えて果因説の人生が開けてくる。
「絶対大丈夫」は「消えてゆく姿」と同じで、単なる現象の対処療法の言葉ではない。
「絶対大丈夫」は因果律を手放し、果因説を選択する強力な言霊である。

 宇宙神の御心は人類一人一人の本心でもある。御心も本心も神性そのものである。
神性は平安(Peace)そのものである。平安からは喜びが限りなく溢れ出ている。平安(Peace)は涅槃である。涅槃は人智と努力によって勝ち取るものではない。人にとって青空の如きものである。本来のもの、元々のもの、生まれつきのもの、初めからあるものである。
本来性のものではない「煩悩」は「消えてゆく姿」である。

この理を説いて、維摩詰は「煩悩を断ぜずして涅槃に入る」と宣言したのであった。
煩悩を相手に浄めるとかではない。
「絶対大丈夫」と唱えることによって、唱える人が「宇宙神の御心が絶対大成就」の世界に入ってしまう。真理の言葉「絶対大丈夫」が、唱える人を果因説の世界・空即是色の世界に次元上昇させてしまうのである。

この平安、涅槃、神性は宇宙神が人に授けた生命である。いかなる想念行為もこの平安、涅槃、神性を奪うことはできない。また、いかなる想念行為の履歴があろうと、この宝を返上する必要性はない。
聖書や法華経の放蕩息子の譬にあるように、放蕩息子の親は自分の全財産をわが子に与えたいのである。つまり、宇宙神は人類に平安、涅槃、神性を自分のものとして享受して欲しいのである。
煩悩を改めるより先に、平安、涅槃、神性を享受して欲しいのである。受け取って欲しいのである。

ところが、イエス以前の人や維摩詰以前の人は、宇宙神の御心を受け取るのに「無条件」では宗教にはならないと考えたのである。彼らは自分自身を赦せなかったのである。そして、自分自身を神から追放された孤児とみなしたのである。「無条件」ではなく「条件付」にすることが、謙虚である・信心深いとみなされたのである。

最も重要なことは、自分は平安、涅槃、神性そのものであると承認し宣言することである。それこそが宇宙神が人類に求めておられることである。宇宙神の御心は絶対に成就する。絶対大成就。 
      


どーでもいいことなのだけど・・・
「煩悩」「涅槃」・・・宗教的で、カタイ、重い・・・うーん馴染めないなぁ・・。 
やっぱり五井先生の「消えてゆく姿」「本心」・・・ 五井先生大好き♪
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by mppoe-light | 2011-06-28 21:44 | ピタゴラスさん啓示録から