果因説で「みんなが働く」

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五井先生の法話で、 
「一人の救世主が降りて世界が良くなるのではなく、みんなが救世主になって、みんなが働く」
というお話がありました。

自分はちゃんと働いているのだろうか・・・と、気になりました。
そのうち 「今日の私は、神意識をもって、言葉、想念、行為することが出来たかなぁ」と考えるようになりました。
気が付かないうちに 結果、過去を気にするようになっていた。。。

過去に意識が向いていると、 我即神也 の宣言も神語も いまいち心に響いてこないようで、 
祈っても印を組んでも、宣言しても・・・何かピンとこない。。。
ちっとも軽くならない、曇ったままで重い感じです。

う~ん。。。。。(;一_一)

そんなわけで、
このところ私は重かった・・(体重のことではない・・・)
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真理は宣言し承認しさえすればいい

 究極の真理は「我即神也」である。それは、自分自身についての大上段の真理である。
日常の姿と比べると、いささか仰々しく感じるかもしれない。
しかし、「真理を実践して見せてください。真理は体現してから口にしなさい」と言うのは古い宗教観念のなせる業(わざ)である。因果説の宗教者は必ずそのように言うだろう。
因果説の教えは一つ一つ実践を積み重ねることが要求される。そして、一から百まで一つ一つ自力で積み重ねなければならない。三十くらいの徳を積み重ねた人は、徳のほとんどない人に、実績を示すことも可能だ。

 他方、大真理「我即神也」はどれだけ実践したかと問われると答えづらいものだ。
この道は因果説の道のように定量化できない。つまり、どこまで進んでいるのか判明し難い。
しかし、「我即神也」の大真理は因果説の真理のように、行わなければ意味をなさない小真理とは全く異なる。
 『真理は汝を自由にする』と言うように、大真理を見出した人は『苦悩から解放され、病から癒され、すべての重荷から解放される』。真理は行うことによって、実を結ぶのではない。『(我即神也の)真理を自らが宣言し承認することによって、自らが神そのものへと自己実現してゆくのです』(1997-6)。真理は宣言し承認しさえすればいい。

真理は勿論、観念論ではない。真理は行わなければ意味をなさないものでもない。先ず初めに真理を『宣言し承認する』ことが大切なのだ。そして、声に出して言霊として、神語として唱えることが重要なのだ。
真理は宇宙神の創造の結果として既に成就している。実践する前に、成就してしまっているのである。この既に完成された神界の様相を言霊によって思い出し、呼び出すのである。これを「祈り」と言う。「祈り」は如何なる行為より積極的な行為なのである。

大真理を行為に現わす現わさないは二次的なものである。大真理は自分自身についての不変の真理なのである。それは現象と実践を超えた真理なのである。
『初めから自分自身に対して畏敬の念を持って接するのです。自分の中にいかなる不完全さが存在しようと決してそれを認めず、自らの本性、輝いた神そのものを認識し見つめてゆくべきものなのです』(1997-10)。
あなたは神を顕わした実績に対して神と認められるのではない。現象のあなたがどうであれ、何であれ、あなたは神である。初めから、あなたは自分自身を畏敬し、崇拝すべき存在なのである。あなたは、見かけの不完全性にかかわらず、神そのものである。光り輝いた神性そのものである。その大真理を宣言し承認すればいい。大真理を宣言し承認することによって、あなたの神性は溢れ出てくることになっている。そして、不完全性など消えてしまう。これが「祈り」の真髄である。

不完全性を自力で消すことによって、神性が褒美とし与えられるのでは決してない。神性は初めからあなたのものなのである。
『あなたこそ神そのものである』(1997-1)
mixiピタゴラスさん

で、この「真理は宣言し承認しさえすればいい 」を読んで、
自分がどう神性を顕したかに捉われている・・・と言う内容をコメントしたところ、
次のようなお返事。

一般の人には、神性顕現の実績がないのに「私は神だ。私は神性に貫かれている」とは宣言し難いところがります。
 また、一般の人は「我即神也」と言っている人がいれば、「そう言う前に神性を見せてくれないか」と言いたくなるものです。
 一般の人と言いましたが、そのような観念が我々の思考回路に残っているわけです。

 真理の重要なところは、「実績が第一」ではなく「実績は二の次」でいいと言うところです。

 「実績は二の次にして、自分を神と宣言し神と認める」
これが果因説のポイントです。

 「現象がどうであれ、自分は神である。宇宙神は私を祝福して下さっている。宇宙神は私に至福を約束して下さった。有難うございます」
このように宣言していると、現象を消えてゆく姿と思えてくる。
この練習を日々行って参りましょう。


一般の方や、消えていく姿の実践がまだ浅い方が
「真理は宣言し承認しさえすればいい 」と聞かれたら、びっくりされるのだされるんだろうけど・・・それについては
「消えてゆく姿を取り組んで下さい・・・」 としか言えない。


“過去の積み重ねが、今、そしてこれからを創っている” と考える因果説。

果因説は、
「未来から完璧なものがもたらされる」 ように思えます。

実際には、時間は常に「今」で、 
常に新しい「私」が、毎瞬、毎瞬、神なる「私」が存在していて
(多くはそれを見過ごしてしまって、消えてゆく方の自分を表現していますが、実際には常に神の自分がある・・・) 
 一切減ることのない無限なるもの完璧なものが、次々に絶え間なく自分の中に流れこんでいるのだから、それが顕現された時には、
「未来から完全なものがもたらされた」・・・ような感覚になるのかな・・・と思います。

絶え間なく、完璧なものが常に自分に流れ込んでいるのに、それを見過ごして、カルマの自分の方を認めているなんて・・・・ 
なんて、、もったいない!!!!
だから今、真理は宣言し承認しさえすればいい

だから今、この瞬間から、我即神也 我即叡智也 我即光也
 
それが真実なのだ。
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そして、気になっていた、 「みんなが救世主になってみんなが働く」 というコト。

実績が二の次でも、ちゃんと働いていることになるのだろうか・・・・などなど
因果説思考をひきずりながら、続けて質問をコメントしてみましたら、


「我即神也」がしっかりできないと、深い「人類即神也」はできない。
「我即神也」がしっかりできたならば、自然に「人類即神也」ができる。


これには目が覚めました。 深いよな~、ちょっと感動したなぁ・・・じわり。。


あの人を善くしてあげたい、と思ったら、まず自分が光にならなければならない。
<神と人間>から

あくまでも心に品位を持ち、言葉では何一つ主張せずとも、ただそこに在るだけでその場が光り輝き、周りの人々が愛と真理に包まれ、………  そんな存在者のことを言う。
<1月号法話の※世界人類のリーダーとは >から


「私」からすべてが始まるのだから、 まず 
自分を愛することが何より大切なのだと思います。

 救世主になって働くためには、
もっと自分を愛し、自分の創造したものも愛し、褒めて祝福して、まず自分自身が光り輝かねば・・・・。
 
ううぅ・・・っ  初心に帰って、またコツコツやろ。。。。それしかないのだ・・・・・。


我即神也
私は神!光り輝いている神そのもの、 
私はすべてに充たされ、すべてに愛され、すべてに抱擁され、すべてに祝福され、
燦然と光り輝く宇宙神とまったく一つに解けあう。
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by mppoe-light | 2011-04-24 13:58 | ピタゴラスさん啓示録から