“自らが考える通りの者”

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先日、TVで海外ニュースを観ていました。

紛争、災害、貧困地帯・・・・画面に映し出される映像の悲惨さ、
見ていて辛い気持ちになります。
心にグサリとくるのが、人々の絶望的な表情でした。 悲しみ、苦しみの果ての絶望的な目。
 (無限なる平和!)
同じ神の分霊なのに。

もし 今自分がTVで映し出された人々と同じ境遇に置かれたら、生きられるだろうか・・・、
神の子として生き抜くことが出来るものだろうか。。。。  
そして
彼らに対して自分に今、何が出来るんだろうか・・・ そんなことを考えているうちに
昌美先生の今月の富士でのお話を思い出しました。

地球人類70億人の中で、我即神也に目覚めた方々が1万数千人。
この1万数千人で世界を平和に構築しようという膨大な計画が神界ではなされております。


もし今、彼らが究極の真理に目覚めたら、厳しい境遇の中でも それが小さな灯りとなって
生きる支えになり人生も好転する・・・
でもあの状況下で目覚めることが出来るものだろうか?
いち早く目覚めに近い人々から目覚めていくために、 今自分に出来ることは、
とにかく祈ること。
そう思いまして、 その日は祈り続けておりました。

世界人類が平和でありますように 世界人類即平和也、世界人類即幸せ也、

なんだか使命感にも似たような気持ちになって祈ってました。
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祈りながら、「今、世界平和を祈っている私は・・・神の子の私。我即神也の私。
もしかしてこれが個人人類同時成道 ということか・・・」と気がつきました。

難しい仕組みはわからなくても、
消えてゆく姿で世界平和を祈ることで、その時自分はカルマの私から本心の「私」へ移行していて、同時に人類に光を放っている。解りやすい教えなのに、奥深い。
やっぱり五井先生、神々さまの計画はすごいっ 無限なる叡智そのものだ☆ 
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<今月の昌美先生の法話から>

彼らは“自らが考える通りの者になる”という究極の真理を深く理解している。
究極的には、自らが考える通りの者とは即ち、“我即神也”そのものである。

それを顕現させるため、死の瞬間までこの究極のミッションを果たすべく、、自らのエネルギーを枝葉末節に使用せず、あくまでも、“我即神也”そのものを顕現させるため、自らのエネルギーを自らの思考、即ち“我即神也”に従わせるため意識を集中させ、祈り、印を組み、世界人類の救済のために献身する道を歩みつづけているのである。

 この生き方こそが宇宙神はじめ五井先生率いる大光明霊団のご計画に沿った天地共同一大プロジェクトであり、それが世界中に展開されてゆくのである。



祈りと『我即神也』の真髄   ←mixiピタゴラスさん

 自分の人間たる現象の姿を見て、それを批判、非難し、評価を下す。そして、その人間の姿を再創造してゆく生き方。それをカルマの道と言う。
現象を見ても、それを消えてゆく姿と観る。現象を越えて、厳然として存在する神の姿を言葉にして、自分を賛美し、自分を尊敬してゆく。そして、その神の姿を顕現してゆく生き方。それを果因説の道、天命の道と言う。

 ①自分をカルマに道から解放し、③果因説の道を極め、③人類全体をもその方向に向かうよう駆り立ててゆく。それが祈りの働きである。祈りには、このように3種類の働き・エネルギーがある。
 この3種のエネルギーを詳しく見てみよう。

①自分を現象から分離させるエネルギーである。赦しのエネルギーである。
②自分を神の姿に重ねるエネルギー。愛のエネルギーである。
③自分の信念を人類に伝える人類愛のエネルギーである。自分自身を赦し、愛したように、人類をも同様に赦し、愛するのである。

 神人は歯を食いしばって、『消えてゆく姿』を行じることもある。しかし、それと平行して、自分を賛美し、尊敬してゆくのである。『厳然として存在する神の姿』に心の焦点を合わせてゆくのである。

 祈りの本質は自己認識である。自己認識は自己創造である。人間は認識した通りの姿を、現象界に顕わしてゆく存在である。
自己認識は必然的に人類全体をどのように認識するのかと言うことと同じである。
自己認識は現象界を基に自己を認識するのか、さもなくば、現象の変化には関わらない本心=神を基に自己を認識するのかである。祈りの自己認識は後者である。この厳然と存在する本心の姿を現象界に顕現することが祈りの目的である。

祈りは、本心サイドから言うと、言葉による自己宣言である。自己讃美である。現象界を創造するとき、本心は自己の顕わすべき要素を一つ一つ言葉にして、具体的に表現する。現象界を創造するとき、本心は自己の素晴らしさを一つ一つ言葉にして、自己を賛美する。この本心の仕事をすることが祈りである。

 この本心と現象界の自己がつながるのは『私』と言う意識である。『私』がいかにカルマにまみれていたとしても、『私』は「我即神也」と宣言した瞬間、本心そのものなのである。本心が現実創造に使う言葉には、例えば「世界人類即平和也、我即愛也、我即光也、我即真理也、我即叡智也、我即健康也、我即繁栄也」がある。それは神語である。それを『私』が、あたかも本心そのものであるかのように宣言するのである。その瞬間、『私』は本心そのものなのである。その瞬間、本心の創造活動が始まっているのである。そのため、祈りは必ず成就する。
 何度も言うように、『私』については常識も科学も通用しない。ここで「瞬間」と言ったのは『即』と言うことである。『我即神也』とはこう言うことなのである。

 『私は愛深く、慈しみに溢れている。
  私はすべてを赦すことができる。わたしはすべてを創造することができる。
  私は神聖で純粋で欲がなく崇高である。
  私は高貴に光り輝き、偉大である。』

 今日も神語を自分に人に語りかけてゆくのである。
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彼らは“自らが考える通りの者になる”という究極の真理を深く理解している。
究極的には、自らが考える通りの者とは即ち、“我即神也”そのものである。


祈りの本質は自己認識である。自己認識は自己創造である。人間は認識した通りの姿を、現象界に顕わしてゆく存在である。

世界人類が平和でありますように 
我即神也 人類即神也
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by mppoe-light | 2011-01-16 21:32 | ピタゴラスさん啓示録から