あちらの「私」と こちらの「私」

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自分と、神意識(我即神也) は、自己意識「私」によってつながってる。 これは、
神意識「私」から見れば、、、意識を3次元世界まで伸ばしている・・・といえるかも。。
だから、
どんな自分であろうとも、いかなる自分であろうとも 常にいつも
私たちは本来、我即神也 人類即神也 ということ。
そして、それを顕すためには、まず自分がそれを認めること。

どんな自分であろうとも
現れた姿(体験する現象のすべて)は、自分の意識の結果。自己意識の結果。
よって人生は自分の人生に対するイメージの結果 だから。
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真理の鍵を握っているのは、いつも『自分』である。真理の核心は、いつも『自分』についての認識である。
自分が変われば、自分の世界も変わる。自分の意識レベルを高める。波動を高める。これらはすべて自己認識の問題なのである。
 一般的に、人間は因縁因果の自分を見過ごすことはない。そして、神そのものの自分を見過ごしてしまっているのである。
赦しとは、因縁因果の自分を消えてゆく姿と見過ごすことである。愛とは、神そのものの自分を自分として見過ごさないことである。

↑“見過ごす見過ごさない


変わらなければならないのは現象ではない。自分が自分をどう見るのか。その見方を変えるのである。自分の自分自身を見る見方が変われば、現象は変わるのである。自分を赦し、自分を愛し、自分を神と認め、神と崇め、神と讃えるのである。

究極の真理は「我即神也」なのである。自分を神と認めないから、神とは異なった姿が現われるのである。神とは違った姿を体験するのである。現象の(過去の)姿から目を離し、自分の「真の姿」「神の姿」に思いを馳せるのである。

↑“見えるものの彼方に


だけど・・・
カルマを残している自分が神の姿を顕すことが本当にできるのだろうか?
カルマを残したまま 我即神也 を受け入れたら 思い上がった人間になって、
歯止めが利かなくなってしまうのではないか・・・。
と、以前は無意識にそう思っていたけど、

神だから愛深い、神だから慈しみを持っている、神だから神聖で、純粋で、清らかで、美しい。
神だから大丈夫。
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カルマは、それを作った主人の元に帰って行くエネルギーである。我即神也になるとは、カルマを受ける主人がいなくなることである。カルマがあっても、その主人がいなくなってしまえば、カルマの意味はなくなる。この果因説の原理は、カルマの浄化という因果説の原理とは異なる。

↑“カルマと神性顕現

3次元の現象界の世界に肉体を置いていても、
消えてゆく姿の私の世界と 我即神也の私の世界は別の世界。自己意識の高さが異なれば、
異なる世界が広がる。 異なる世界をつなげるのは、自己意識「私」。
「私」が何を信じて何を受け入れるかで、住む世界が別れる。別の世界が展開されていく。

五井先生は、守護霊さま守護神さまに感謝しなさい、「五井先生!」と呼びなさい と
言ってくださいました。 まだ幼くて 光のレールに乗るためには保護者が必要だったので、
守護の神霊 あるいは五井先生と呼ぶことで、 光のレールに乗せてもらって、本心(我即神也)にまで意識がとどくようにして下さったのだと思う。。 
今は自立できるところまで来たので、自分でレールに乗って、意識を神意識につなげる

世界人類が平和でありますように 我即神也 人類即神也


あちらの私は神意識の「私」 こちらの私は、肉体側の今の「私」
自己意識「私」を通じて、二つの「私」を一直線に統一し、神意識の活動を地上に顕現する。
それが生命の本来の目的。 大きな役目を担っているようだけど、
その役目は きっと感動と喜びに溢れたものになるのだろうな・・・と思う。

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by mppoe-light | 2010-12-05 09:30 | 真理について思ったこと