ポジティブなこと・自分が自分と向き合うことetc・・・

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私はこの頃、
生きるということは現象界に自分の意識を使って神性のワールドを拡げ強めることだよなぁ・・・と思ってまして、それが自分が生きている証になるのだと思ってます。

みんなの神性意識ワールドが臨界点に達すれば、それが人類に波及するのだと思ってます。
今 やっと世界平和の意識が芽生えてきた気がする・・・遅っ!(^_^;)

それで、
神ワールドを意識しながら印を組み、祈りをしています。
で、いつもそういった状態に集中できるのが理想なのだけど、
日常生活はそうはさせてくれません。。。
消えてゆく姿に引っかかりまして・・・、その消えてゆく姿と取っ組み合いをしないで 即、神さま 我即神也 に入れたらいいのだけど、、 我即神也 まで復活するのに時間がかかるわけです。 

c0074000_22585918.gif(p_-) くくっ~ぅ(涙

そこで 今月の昌美先生のお話から なんですが・・・

実際に否定的な言葉を使ってはならないと頭では判っていても、それを実行するのはなかなか努力がいることだし、勇気がいることなのである。
さらには一瞬一瞬意識的に生きてゆかなければならない。そのため、否定的な言葉を覆し、意識を常に光明思想の生き方に集中させるだけの、ポジティブなエネルギーが必要なのである。

消えてゆく姿を掴まえないで、さらりと守護霊様に渡してしまい 我即神也に切り替えるためには
意識を常に光明思想の生き方に集中させるだけの、ポジティブなエネルギーが必要なんだなーと思います。

消えてゆく姿を上手に実行するためにも、自分のポジティブなエネルギーを高めたい。
そのためには 祈り、印を行い、そして神語を語ることを継続することが
今私ができる最も良い方法なんだ・・・と思っとります。

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自分が自分と向き合う

 『常に美しく輝かしく愛に満ちた神たる自分を想像しつづけてゆけば、必ず現実に現われてくる。来る日も来る日も幸せのみ、喜びのみ、成功のみ、輝ける生命そのもののみが現われてくる』(注1)。

これが神人の人生だ。神人のミッションだ。今まで、できなかった原因はただ一つ。自らの神性を否定したからに過ぎない。自分というものを錯覚したからに過ぎない。

しかし、真の神性は何ら、揺らぐことなく、何の変化もしていない。神性は揺ぎなく、厳然と輝き渡っている。その真理を思い出すことだ。忘れた神の姿を思い出すには、神が語るように神の言葉を語ることだ。それは神語だ。
『神になったように振る舞えばよいのだ』(注1)。祈りと印も、神の振る舞いの一つである。

 自分の「真の姿」を思い出し、自分の「神の姿」を思い起こす。それができるのは他ではない。自分しかいない。
『自らが自らの尊厳性を認める、自らを尊敬し、崇めると同時に、自らが自らの幸せをもたらし、自らに感謝し、自らを健康に保つ』(注2)。
この自分と自分が向き合うところに宗教の本質がある。

 自分と自分が向き合うところ。その場の曇りが、苦悩を作り出す元凶だ。曇りを晴らすのが、祈りと印である。果因説の祈りと印とは、迷いの立場から祈り、印を組むのではないということである。自分が「自分の神の姿」を認める、その意図の下に祈り、印を組むのである。

 自分と自分が向き合うところ。正しく向き合えば、神性しかない。自分の内にすべての神性がある。自分が顕わすべきものすべては自分の内にある。顕わすべきものとは、神の赦し、神の愛、神の創造力、神の歓び、神の幸せ、神の健康、神の豊かさ、神の美しさである。

 自分は神だから、神として振る舞えばいいだけである。一番入りやすいのが、言葉だ。神を真似るつもりで、神語を語ればいい。語っている内に、真似ではなく、それが本当のことであると解かってくる。冒頭で引用した「神たる自分を想像する」のも、言葉から入るのが一番入りやすい。神語を語って、自分の神性イメージを創ってゆくのである。印も、神の振る舞いである。神の真似ごとのように見える。そう見えても、実は神が印を組んでいるのである。印を通して、「神たる自分のイメージ」が醸成されているのである。

自分と自分、「消えてゆく姿」を持ち込むことなく、正しく向き合おう。

注1 1999-10
注2 1999-1

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mixiピタゴラスさん

果因説の祈りと印とは、迷いの立場から祈り、印を組むのではないということである。
自分が「自分の神の姿」を認める、その意図の下に祈り、印を組むのである。


ここは、そうだよな~と思いながら読んでました。
果因説であろうと何であろうと、真の祈り、印とは 我即神也の立場から行うこと。


消えてゆく姿が消えることで顕れるのが神性 というやり方、
人間は本来神だから、それ以外の非神の顕れは消えてゆく姿 とみて捨てていくやり方、
同じようなのだけど、取り組む意識が少々違う。
 私は 自分は神だから、それ以外は消えてゆく姿・・・の、スタンスでやっています。 
欠点より長所に注目した方がいいって言うもんね。(*^_^*) 今は果因説だし☆

自分と自分が向き合うところ。正しく向き合えば、神性しかない。
自分と自分、「消えてゆく姿」を持ち込むことなく、正しく向き合おう。

心がけたねば。
で、 この部分を読んだとき 鏡のことを思い出しました。
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聖典は、自分の姿を見る鏡である。それは襟をただし、乱れた髪の毛を整える鏡ではない。自己イメージを神のイメージに重ねる鏡である。鏡は現われた姿を映すのではない。鏡は自分の意識に自分がどのように写っているのかを顧みることの象徴である。
↑ぴーさんの、「幸いなるかな、神語を語る者。」から

鏡・・・自分を知るためのもの。
きっと 三種の神器の鏡もこの意味なんだろうな。

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by mppoe-light | 2010-11-12 23:19 | ピタゴラスさん啓示録から