幸いなるかな・・・単純な私

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ピタゴザウルスさ・・・じゃなくてピタゴラスさんのmixi の「幸いなるかな、神語を語る者」
これを読んだ時は・・・・

「んもー、そんなこといったって 言うのは簡単だけど実行は大変なんだっ」と、
c0074000_22263126.gif少々ぶーぶー文句?をいいつつ、いつものように印刷してファイルに閉じて、そして就寝。。。 
ぶちぶち・・・とスネながら(^_^;) 寝た。。。。

今日、いつものように、神語の気に入ったページを3ページほど読み、印を10回組んでいたのですが、、 
組んでいるうちに・・・・  
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「あ、 こういうことかな」 と、ふいに納得してしまいました。

今の結果は過去の意識によるもの。 過去は消えてゆく姿、意味はない。
その場、その時、何が起こっても
自分が 我即神也 といえば「神」。 それでいいんだ。なるほど。

と、いつもの私流の理解の仕方で、気分はすっきり。

凹むのも早いけど、浮上するのも早い・・(;一_一) 単純。。。。

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幸いなるかな、神語を語る者。

聖典は、自分の姿を見る鏡である。それは襟をただし、乱れた髪の毛を整える鏡ではない。
自己イメージを神のイメージに重ねる鏡である。鏡は現われた姿を映すのではない。
鏡は自分の意識に自分がどのように写っているのかを顧みることの象徴である。

 現われた姿(体験する現象のすべて)は、自分の意識の結果である。自己意識の結果である。人生は人生に対するイメージの結果である。現われた姿を正してはいけない。現われた世界で何かを求めてはいけない。

 厳然と存在する神なる自己を認めるのである。神の人生はすべてに満たされ、すべてが祝福され、すべてが幸せで欠けたるものがない。このような、神としての人生を認めるのである。真の自分自身を思い出すのである。「自分が変われば、人生が変わる」とは至言である。
ただ一つ気をつけることがある。自分の想念や行動力を直接変えないことである。試みるならば挫折する。
自己意識を「我即神也」に定め、その理解を深めてゆくのである。そして、神としての言葉を唱えるのである。それ以上に自分を変えようとするのはいけない。自力で、想いや感情の習慣を変えようとすれば、打ちのめされる。迸り出てくるものには「消えてゆく姿」で対処する。

「私が語る言葉は神の言葉である」と宣言したならば、神語を用意し、神語を唱え続けるのである。
宣言文の真意は「いずれ、立派なことを語れるようになりますように」ではない。即刻、神の言葉を語るのである。神語を語り続けるのである。自分の言葉が「全く新しく、完全に平和な世界」を呼び出すのである。
自分の言葉が自分自身と人生と世界を創造するのである。
幸いなるかな、神語を語る者。
mixiピタゴラスさん

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by mppoe-light | 2010-10-26 22:33 | ピタゴラスさん啓示録から