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因果応報は軌道修正によるもの・・・

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カルマの相対性
 自己意識が肉体世界の自我に縛り付けられている限り、カルマの法則が成立する。
しかし、自己意識が肉体世界を離れ、「我即神也」を認めた瞬間、カルマの法則は成り立たなくなる。
カルマの法則は絶対法則ではなく、相対的法則なのである。カルマの法則と言えども、神の創造力を誤用したものである。創造力の誤用には、軌道修正が働く。それが因果応報のように見えるわけである。ところが、「我即神也」を認めると、軌道修正は不要となる。つまり、『因果律を手放すことは可能なのである』(注1)。
 
カルマを超えられるか否かは、自分の過去を赦すか否かにかかっている。過去を赦せることができれば、「制裁を受けても仕方がない」という思考を変えることができる。この潜在意識の「仕方がない」という思考こそがカルマを引き付けているのである。
『神は人類に対して、自らの過去を赦すよう説いている』(注1)のだから、積極的に過去の『自らを赦し』、『今』ある自己の神性を賞賛することである。果因説の生き方に徹することである。

 その真髄は「私は本来、神そのものである。光そのものである。真理そのものである。永遠の生命そのものである(我即神也、我即光也、我即真理也、我即永遠の生命也)」(注1)となる。この四次元の真理が三次元の因縁因果の相対的法則を超える絶対真理なのである。
 
現実の世界は、次から次へと様々なトラブルが舞い込んでくるように見えるかもしれない。それを次から次へと光明の出来事が舞い込んでくる世界へと変えてゆくわけである。それにはそれ相応の思考訓練は必要である。しかし、それはこの世的な物質対物質、力対力、エネルギー対エネルギーという相手のある戦いではない。カルマ対光明の戦いでもない。自分との戦いでもない。自己意識内の訓練である。
 
西欧文明の思考は、弁証法であり、常に戦うことを要求する。しかし、果因説の思考は戦いや想念のバトルを止めることである。すでに完成した自己をイメージするところからすべてが始まる。現象界が不完全な自分であってもかまわない。ただし、不完全な自分を鍛えなおすわけではない。「今、私はすでに完全な神そのものである」と思って感謝し、喜べばいい。一風変わった修行のように見えるだろう。ご安心あれ。果因説の背後には宇宙子科学があるのだから。
 
喜びが涌いてこなければ、自分を尊敬するんだ。
『最初に自分を尊敬するところから始めよう。
まだ何もしていない自分を、
まだ実績のない自分を、
神として尊敬するんだ。』
(ニーチェの言葉のパロディ)
 
外なる何ものかを崇拝することは真理ではない。先ず、自分の内なる神性を崇拝する。『私』は自分の言葉で現実を創る神だ。この『私』を中心に人生を創り直す。神人たちは大変な天命を授かったものだ。果因説と言う前人未到の領域を前進する天命だ。
注1  2010-1 P.14-16  
 ピタゴラスさん
           
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カルマは神の創造力を間違って使用したもの。
軌道修正することで、バランスをとっている状態。

我即神也を認めれば、カルマの法則は意味がなくなる、軌道修正はもう必要ない
(リハビリは必要だけど)
なぜなら、そこは(我即神也)は本来因果が働く場、神性から来る光が創造してゆく場、
絶対真理の場になるから

と、言うことで・・・、

そうと分かったら、あとは自己意識内の訓練、リハビリあるのみです。


果因説の思考は戦いや想念のバトルを止めることである。すでに完成した自己をイメージするところからすべてが始まる。

心の中で葛藤が始まったら、まず我即神也に戻る。
壁にぶち当たったら、まず我即神也から始める

忘れないようにせねば。。。


が、、、
よくどこかに行ってしまうんですよね、飛んで行ってしまう・・・・我即神也の意識、
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訓練あるのみ!

我即神也、我即愛也、我即真理也、我即光也
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by mppoe-light | 2010-08-30 19:29 | ピタゴラスさん啓示録から