カルマと神性顕現

「因果律と果因律の生き方の違い」 です。早速、法友たちにメールで送りました。

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カルマと神性顕現

 カルマは、因果律においては全く絶対的な法則である。因果律では、神ですらこのカルマの法則を超えることはできない。神は一つ一つのカルマを浄化するか、カルマを作った本人がその報いを受け取って行かなければならない。
しかし、この因果律には一つの前提がある。それはカルマを受ける主体は変わらないと言う前提である。その前提では、カルマを受ける主体は、カルマが浄化されない限り、いつまでも凡夫なのである。
 
果因説では、その前提が異なる。前提となるのは「我即神也、人類即神也」なのである。『即』というのは、無条件、いきなり、既に、初めから、元々、本来という意味であった。『即』とは四次元的別世界、パラレルワールドに即入すると言う意味である。『我即00也』は自己意識の領域であるから、自己の自由と責任において自己のみが決定する領域である。

 自己意識が「我即神也」を宣言する瞬間、そこにいる『私』は神なのである。『私』はすべてを赦すことができ、すべてを創造することができる神である。
カルマは、それを作った主人の元に帰って行くエネルギーである。我即神也になるとは、カルマを受ける主人がいなくなることである。カルマがあっても、その主人がいなくなってしまえば、カルマの意味はなくなる。この果因説の原理は、カルマの浄化という因果説の原理とは異なる。
 
 「我即神也」を宣言するや、そこには過去はない。当然、過去から発するエネルギー、つまりカルマが向かう先はない。「我即神也」は『今』にとどまることである。統一行などの『今』に留まる訓練は、「我即神也」に留まる訓練である。『今』から吹き上げてくるものは神性のみである。この涅槃の中には煩悩は入り込めない。
この『今』(涅槃)の中で、自己の神性イメージを働かせる。それによって神性顕現を体験する。これが果因説の原理である。また、それは「煩悩を断ぜずして涅槃に入る」の原理と同じである。
 
西園寺会長の説かれる真理はその真理をよほど意識して追認しないと、体験できないものである。「我即神也・人類即神也」「過去はない」「カルマはない」、、、、ことごとくそうなのである。
「人類即神也」と言っても、その真理を認めない人は、神ならざる人類を体験する。
「我即神也」と言っても、その真理を認めない人は、神ならざる自分を体験する。
「過去はない」と言っても、その真理を認めなければ「過去」に振り回される。
逆に、真理は追認することによって、体験できるのである。カルマを浄化し、徳を積んで、人を救済してから真理に至るのではない。真理そのものである自分自身について「我即神也」を追認することによって、体験が生じるのである。

 意識して真理を追認しなければ、潜在意識が習慣的に働き、因果律に縛られる。ところが、『私』が意識して、真理を追認し、無意識に流されないならば、真理を体験する。これが因果律と果因説の生き方の違いである。この違いは意識の領域であるから、因果律のように「000をしてはならない。000をしなければならない」などという縛りはない。しかし、意識して心がけることは沢山ある。

『ぜひ心がけていただきたいことがある。それは神霊の宿った言葉、光明の言葉を放つということである。チャクラが開いた今年から、神人たちはこぞって神霊の言葉のみを習慣づければよいのである』(注1)。
そこで、推奨するのが神語集を作って、頻繁に神語を唱えることである。

注1  白光誌2010-3 P.13-14

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私は神だから愛深い、神だから慈しみを持っている。
神だからすべてを赦すことができる。 (消えてゆく姿=色即是空)
神だから、相手の命を観ることができる。相手の光を見ることができる。
神だから、相手の神性を観ることが出来る。
神だから、自分の欲することを創造してゆくことができる。 (空即是色)

そして神だから神聖で純粋で欲がなく、崇高であり、
神だから、高貴で光輝き、偉大である。

我即神也 人類即神也

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by mppoe-light | 2010-08-26 19:19 | ピタゴラスさん啓示録から