厳然と存在している・・・!


今回は、読みやすく判りやすく、 消えてゆく姿で世界平和の祈り から 
我即神也 (の認識、顕現)に至るまでを、まっすぐ解説してある・・・って感じ
ハートにストレートに届きました。
爽快感♪(●^o^●)♪
久しぶりに印刷して何度も読みました☆ 
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厳然たるもの

 肉体界だけでなく、幽界にも自己の想念がある。霊界にも自分自身が存在する。『神界には、神としての自己自身が厳然として存在している。』(「霊性の開発」)
 
 『本心はあなたの否定的想念および言動とは全く無縁です。本心は神そのもので厳然として侵しがたく、ただただ神の無限なる愛、エネルギー、パワー、赦しを発しつづけているだけです。』98-5 P.11

 『宇宙神と全く一つに結ばれている自己を見出します。それこそ本来の自己です。我即神也そのものの自分が厳然とそこに存在していたのです。  本来の自分とは、まぎれもなく自分の内部に厳然と存在しつづけている「我即神也」の自分であることに、気づくのです。』97-3 P.15-16

 『無限なる能力をどのようにして引き出してゆくのか。それは、自らの内に厳然として存在する神そのものを認めることによって、成り立つのです。』99-1 P.10
 『生きるとは。自らの内奥に厳然と存在する神意識「我即神也」へと目覚めてゆくことである』。2008-2 P12

 五井先生がよく言われたことは、「本心と業想念を区別する」ことであった。その方法は「消えてゆく姿で世界平和の祈り」であった。それは『本来の自己を認識し、今までの否定的、習慣的自己意識を徹底的に覆し、変えてゆく方法』(2001-7)であった。
 この自己認識=自己意識というものが宗教の本質なのである。この自己認識は一般科学、一般常識が通用しない領域なのである。科学でも未踏の領域なのである。ところが、この世界の特殊なロジックを理解できずに、常識論で宗教を理解しようとする。自分の常識で理解できない真理を改ざんする。そんな論法が一人歩きしがちなのである。

 肉体、幽体、霊体、神体にそれぞれ自分自身がいる。同時に様々な自分が存在しているということだ。自己意識にはこの多種多様な自分自身が、次から次へと写ってくる。自己意識は訳も分らず、写ってきた自分の姿を自分だと想いつづける。この無節操な自己意識に、「我即人間也」を手放すよう仕向けて、『我即神也』を思い出させるのが宗教の本質である。
 ところが、この「肉体人間観」を抜け出すには、一般的に多大な抵抗がある。習慣の想いを改革しようとすると、抵抗が生じる。視覚が訴える現象は、人間にとって強烈な事実に想えるからである。
このような抵抗する妄念を吹き飛ばすには、さらに強力な言葉が必要になる。それが「厳然として」という言葉である。
一人のはずの自分が、同時に何種類も存在している。しかも、今まで自分と想ってきた自分とは、似ても似つかない『神我』の自分だけが本物で、残りは幻影に過ぎない。幻影でない『神我』は「厳然として存在している」。これらの真理は深遠で、人間知では納得しずらいものである。

釈尊の「久遠実成の仏」は法華経のテーマであった。釈尊のことなら観念的に理解できる。しかし、自分の「久遠実成の神(仏)」となると、困惑が生じる。今まで、微かにも感じることのなった存在である。見たこともない存在である。ところが、西園寺会長は、その『神我』を、認めるよう要求しておられる。

生年月日、性別、国籍、本籍地、親類縁者、年齢、あらゆる経歴、癖、罪業、善徳、過去世。これらのパーソナリティそのものが「消えてゆく姿」である。残るもの、消えざるものは『神我』のみである。厳然と存在しているのは『神我』のみである。ところが、パーソナリティの自我を神我に近づけようとするから、宗教はアヘンのようになる。自我はいくら鍛えても、神我になることはないのである。この二つは、別世界にある別物なのである。自己意識が錯覚を起こしているから、真理が見えてこない。

 この『神我』を観念論でとどめることなく、現実世界に引き出すには何が必要なのか。自我と神我が対立するような関係になれば観念論の域を脱することはない。自己意識の世界に二元論はない。同時に様々な自分が並存していても、真実の自分は唯一つなのである。自我と神我は別世界のものである。『神我』に印を組ませ、呼吸をさせ、神語を語らせるのである。これが、別世界を呼び出す有効な方法である。これが、別世界のスイッチをオンにする方法である。

 『私は愛深く、慈しみに溢れている。私はすべてを赦し、すべてを創造することができる。私は神聖で、純粋で、欲がなく、崇高である。私は高貴に輝き偉大である。』
 神になったつもりで、このような神語を口にするのである。神になったつもりで、印を組むのである。神になったつもりで、呼吸法をするのである。この果因説は必ず成就する。この言霊は必ず成就する。神語によって真理を思い出すのである。

 人の言動が「厳然と存在するもう一人の自分」を忘れさせるのか。否である。自分がしっかり「厳然と存在する神我」を掴んでいないだけだ。自分がこの「厳然さ」を意識すればするほど、自分は現象界から解放される。さらに、現象界に「厳然たる神我」を顕現しようと言う気持ちが涌いてくる。


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肉体、幽体、霊体、神体にそれぞれ自分自身がいる。同時に様々な自分が存在しているということだ。自己意識にはこの多種多様な自分自身が、次から次へと写ってくる。自己意識は訳も分らず、写ってきた自分の姿を自分だと想いつづける。

肉体、幽体、霊体、神体、にそれぞれの自分がいる・・・ ということが今までピンとこなかったのだけど、「次から次へと写ってくる」 この言葉で、なるほど~ 
 
この無節操な自己意識に、「我即人間也」を手放すよう仕向けて、『我即神也』を思い出させるのが宗教の本質である。 
分かり易いな~ 嬉しい♪


この『神我』を観念論でとどめることなく、現実世界に引き出すには何が必要なのか。

『神我』に印を組ませ、呼吸をさせ、神語を語らせるのである。これが、別世界を呼び出す有効な方法である。これが、別世界のスイッチをオンにする方法である。
さらに、神になったつもりで行なう。 そうすれば

この果因説は必ず成就する。この言霊は必ず成就する。

自分がこの「厳然さ」を意識すればするほど、自分は現象界から解放される。さらに、現象界に「厳然たる神我」を顕現しようと言う気持ちが涌いてくる。
あとは、毎日繰り返すこと。
印を組む前に、車の中、お風呂の中で、部屋で一人で・・・難しいことではない。

私は神だから、すべての赦し、すべてを創造することができる。今も創造している。
私は神だから、神聖で純粋で、欲がなく、光り輝いている。

私は神が顕現できるかも・・・・そんな気持ちが涌いてきます おおぉ

私は光そのもの、真理そのもの、愛そのもの、叡智そのもの。
私はすべてに充たされ、すべてに愛され、すべてに抱擁され、すべてに祝福され、
燦然と光り輝く宇宙神とまったく一つに融けあう。


自分が充たされてるからこそ、人を赦し、愛せる・・・つまり人に与えることができる
今、そう思っています。

神界には、神としての自己自身が厳然と存在している
自らの内奥に厳然と存在する神意識

我即神也 人類即神也
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by mppoe-light | 2010-06-13 22:35 | ピタゴラスさん啓示録から