「もう一つの世界」

もう一つの世界・別世界

一般の人は『私は神そのものだ』とはなかなか言えないものである。『神そのものだ』とまで行かないにせよ、自分自身を『神聖だ、偉大だ、崇高だ』と言うことは、「100年早い」「そんな資格はない」「そんなこと言ええた立場でない」「傲慢、偽善は許せない」と感じるのが一般的だ。
しかし、真理は『即』なのである。一人の例外もなく、『我即神也』なのである。
この『即』は、無条件に、時間的経過は不要、この世の立場には無関係に、現象世界とは関係なく、過去はないからと言う意味である。
真理を認めれば、即その真理の姿が溢れ出すのである。つまり因縁因果と「本来因果である果因説の神性顕現」は別世界なのである。
因縁因果を浄めない限り、神性顕現はないと考えるのは因果律の発想にすぎない。『前生の因縁と神人の顕現とは、これまた一切関係ないことです。因縁とは別に、自らを真理の光で輝かせることは出来るのである』(注1)。

現象の自分と切り離された「もう一人の自分」、つまり「神そのものの自分」「我即神也」を認めることである。真に自分を赦し、愛したとき、そこに因縁因果の自分はいない。因縁因果を浄めたのではない。真に自分を赦し、愛したとき、そこは別世界なのである。そこは因縁因果とは無関係な神我の世界なのである。何が別世界を呼び出すのか。意識である。自己意識である。自己意識が異次元世界を呼び出すのである。「もう一人の自分」がいれば、「もう一つの世界」があるのは当然である。

自分の本心を認め、愛し、讃えるのに積極的であれ。
自分の本心を認める人は、人類の本心を認め、愛し、讃えることが出来る。

一人一人が「もう一人の自分」に目覚めるとき、世界は「もう一つの世界」になる。
一人一人が「我即神也」を思い出すとき、世界人類は平和になる。

それでも、あなたは自分を神と讃えるのに躊躇するのか。
では、何度でも維摩詰のメッセージを伝えよう。
『我々、人類はすべて赦されている。
 我々、人類は宇宙神の創造の賜物であり、宇宙神そのものである。
 我々、人類一人一人は宇宙神にこよなく愛されている。
 その栄光を讃えよ。自分自身で讃えよ。お互いに讃えよ。
 そこに真理がある。』

 煩悩を抱えながら、前生の因縁を抱え込みながら、神の姿を顕わすところに真理がある。
煩悩を抱えずして、天下った御使いが、神の姿を顕わしたからといって、珍しいことではない。人類の見本となるのは、煩悩を断ぜずして涅槃を得る生き方である。
未だ外面的な現象が整わずして、自らを神と認める。そして、神性顕現を成就して行く。そのとき我々は人に、「吾は神を見た」と思わず思わせることができるのである。
人は、「自らを神と認める人」を神と見るのである。

「自らを神と認める人」は、他から神と認められるのである。
 人は、「自らを凡夫と認める人」を凡夫と見るのである。
「自らを凡夫と認める人」は、他から凡夫と認められるのである。
 外面的な現象とは別に、『自分自身を神として認識することからすべては始まる』(注1)のである。
注1  白光誌1997-10


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何が別世界を呼び出すのか。意識である。自己意識である。自己意識が異次元世界を呼び出すのである。「もう一人の自分」がいれば、「もう一つの世界」があるのは当然である。
どちらの「私」を選択しているか・・・・
慣れ親しんでしまった現象世界に呑まれ、消えてゆく姿の「私」を選んでいて・・・重かった・・・
そう、先ほどまで凹んでおりました。。(T T)うううぅ。

自己意識「私」がすっかり業想念の波の中を放浪してしまい行方不明?状態。
うー、ここから抜け出したい。。。
とにかく過去は「守護霊さま守護神さま、あとはよろしく。」って感じでお願いして、それから「私」探し。 
で、やっと“今の「私」”にたどり着きました。

なんか軽くなった。。。 良かった。。。(涙

自己意識は、業想念の波の中が好き、(過去世から慣れてるところだから仕方ないけど)
でももうそれは終わりにして、はやく家に(神性)に帰ろう。

私はすべてに充たされ、すべてに愛され、すべてに抱擁され、すべてに祝福されている

我即愛也 人類即愛也

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by mppoe-light | 2010-05-19 23:17 | ピタゴラスさん啓示録から