「もう一人の自分」 を信じること

「もう一人の自分」

自分自身についての信じたことはすべて現実化する。これは『空の約束事』であった。
何を信じようと『神なる自分』はすべてを思いのままに創造することができる。神に備わった無限なる創造力と自由、供給である。その力は生命の働きそのものである。

 そこで、何も確たる信念がなければどうなるのか。平々凡々たる人類の平均値の人生が現れてくるわけではない。余計な自我の信念が、全くなければ、人は神の姿を顕わすばかりなのである。これは本来因果であり、果因律であり『空即是色』である。絶対力、神力の世界である。

 しかし、自我をなくすのではない。自我と格闘し、自我を滅却することは自力の道である。この道は困難を極める。自我は無限なる創造力を利用し、『空の約束事』を利用して、自分は神ではないという信念を現実化させている。人類はその自己の信念を体験しながら、軌道修正をしているのである。人生の中では、「消えてゆく姿」も「神性顕現」も自分で起こさない限り、何も起こらない。自分で起こしたことを体験する。これも『空の約束事』だ。

では、いかにして、絶対力、神力が働く状況を顕わしてゆくのか。神性を顕現してゆくのか。それは「我即神也」の信念をもって、「我即神也」を思い出してゆくのである。「我即神也」に目覚めてゆくのである。気づいてゆくのである。自我の業を浄めるのではなく、『もう一人の自分』に焦点を合わせてゆくのである。我々が真理に基づき、自分が誰であるか、『もう一人の自分』が何であるかを宣言しつづけるとき、『空』の原理は「空即是色」として機能する。我々は「我即神也」の真理、神性を現実世界で体験するのである。
 
真理に基づく『もう一人の自分』は『神界に厳然として存在する神としての自分自身』 である。『自分の中にまぎれもなく厳然と存在しつづけている我即神也の自分』である。
この現象界の姿によって汚れもしない「自分の本質」には本来我、古代我、本心、本体、神我、真我、神意識、神バージョンの自分、直霊神、久遠実成の仏、生命と多くの異名が与えられている。五井先生は呼び名はともかく、「ひたすら本心を想い続けよ」と説かれていた。
 
「ひたすら本心を想い続ける」ことが祈りであり、言葉で宣言したものが神語である。祈りも、神語も肉体側が神霊のパワーを利用して、願望成就を遂げるものではない。祈りも、神語も『もう一人の自分』が、肉体を使って神性を現象世界に顕現するためのものである。肉体側は自分の感情想念とは関係なく、『もう一人の自分』が語りそうなことを、語ればいいのである。それは真の祈り、果因説の祈り、神語である。『もう一人の自分』がしそうな仕草をすればいいのである。それは印である。

 現象界を見る限り、「凡夫の自分」と「もう一人の自分」「本心」は別物に見える。しかし、意識の世界は四次元軸の世界であるから、「我」と「神性」を同一視してゆけば、その通りになるのである。それを現実世界で体験できるのである。
我即神也。我即愛也。我即真理也。我即光也。成就。

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余計な自我の信念が、全くなければ、人は神の姿を顕わすばかりなのである。これは本来因果であり、果因律であり『空即是色』である。絶対力、神力の世界である。
自己意識「私」は、そもそも神で、本来因果=果因律。 心強い。

「我即神也」の信念をもって、「我即神也」を思い出してゆくのである。「我即神也」に目覚めてゆくのである。気づいてゆくのである。自我の業を浄めるのではなく、『もう一人の自分』に焦点を合わせてゆくのである。

消えてゆく姿で世界平和の祈り  つまり業想念から本心へ祈りを通して意識を置き換える、
我即神也 「もう一人の自分」に意識の焦点を合わせる。
そしてそれが本来の自分 神の分御霊、「我即神也」であると信じる。

自分が「神」であると信じる、強く信じればそれだけ

『空』の原理は「空即是色」として機能する。我々は「我即神也」の真理、神性を現実世界で体験するのである。
のだと思います。

そのために、昌美先生は、「過去はない」、私たちは本来は「神」である、 と繰り返し説かれ、「我即神也」と信じる気持ち、信念を強くするために 私たちは、繰り返し祈り、印を組み、呼吸法を行い、神語を語り続けて、自分自身に何度も言い聞かせる。・・・。

自分を信じる、疑わない。

我即神也 我即愛也 我即真理也 我即光也
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by mppoe-light | 2010-05-14 22:04 | ピタゴラスさん啓示録から