本心と業想念の区別

本心と業想念の区別

 五井先生は真理を知らせるために、「本心と業想念の区別」をするよう説かれた。
 この区別は理論的には明確で平易なことのように見える。しかし、問題はここにある。実は真に修得するのに年数がかかるものである。
『私』という意識は、意識の座に昇って来るものを何でも、「それは私」、「私はそれだ」と思い込んでしまう。
だから、本心であろうと業想念であろうと、どちらも意識の座に現われれば、「私」は「それが自分」と思い込んでしまうのである。
「本心と業想念」の区別とは、この「私」の習性を正すことにある。それは、「私とは何か」についての問題なのである。五井先生は、これを「消えてゆく姿」の訓練を繰り返すことによって習得するよう教えられたのである。

 「現象の世界」のものは「神の創造の世界」を一寸たりとも変更できないのである。あなたが、何をしようと、言おうと、想おうと、あなたの本心は光り輝いていて、いかなる汚れとも無縁なのである。ここに大きな安心がある。


我即神也
 多くの会員さんは「消えてゆく姿」の訓練を通して、「本心と業想念を区別」出来るようになった。
次の段階で、「私」を自由に動かす訓練が始まった。それが「我即神也」である。
何千年もの間、現象の世界の中で、過去を根拠に、「私」は「罪深く、汚れている」と認識していた。
そのような認識が「消えてゆく姿」であり、「私」は実のところ「神の姿」であると思う訓練と印が始まった。
「罪深く、汚れている消えてゆく姿」と「愛深く、汚れなき神の姿」は同時に存在している。自由自在にどこにでも動く「私」をどちらにくっ付けるのか。これが我即神也の課題であった。

 因果律の中に長きに生きてきた人類にとっては、「私の本質は神である」と認めることすら理解困難なことだ。しかし、神人はそれをクリアーしてきたのである。
もう一歩、何が必要なのか。『即』の理解だ。
『即』と言うのは、現象の世界にあって、消えてゆく姿にまみれていた「私」が、ワープつまり、瞬間移動して「私は神そのもの」であると認めることなのだ。そこには、多少のリハビリ程度の訓練はあっても、躊躇や時間的経過は不要と言う意味なのだ。
どんな状況、場合であっても「私は神そのもので、高貴に光り輝き、偉大である」と思うべきなのだ。
「富士聖地で印を組んでいるときの自分に、普段の自分が近づきたい」という想いは必要なのだろうか。
それは普段の自分を赦していないだけではないか。どんな想念を、繰り返し繰り返し出していようが、思い立った時、つまり『今』のあなたは神そのもので神聖で、汚れなく、崇高なのだ。
『今』のあなたは『過去』とは厳然と切り離されている。

『過去の償い』と称して、自分を罰するより、自分は神だと宣言して、神の姿を顕わすことに専念するという道を歩む。これが果因説の真骨頂だ。自分を赦すのに遠慮は禁物。遠慮深い小さな善人は因果律の世界に閉じこもるしかない。積極的に自分を愛することだ。「神の姿の自分」を見つめる視線を鍛えるのだ。イエス・キリストが愛深かったのは、この視線が強烈だったからだ。

 『現象の世界』から『神界、神の創造の世界』へのワープ。これが四次元なのだ。「私」は、何故ワープすることができるのか。「私」は神だからだ。
 「私」は何かに、くっ付きたがるものだ。つまり、何かと同一化したがるものだ。「私」を「現象の世界」・「過去」にくっ付けるから因果律に縛られる。「神の創造の世界」・「今」 にくっ付けるから「神の姿」を顕わすことが出来る。
 「私」は如何様にでもワープしつつ、至高の神に同一化する。これが「我即神也」とその印の意味だ。
「私」の可能性のことではない。「私」の将来性のことではない。「私」そのものの姿のことを言っているのだ。
そのワープが今まで出来なかったのは、ただ自分がワープを選択しなかっただけだ。選択肢があることを知らなかっただけだ。
 どのようにワープを実証してゆくのか?
 神語を語ることによってだ。

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ピタゴラスさん啓示録


「本心と業想念」の区別とは、この「私」の習性を正すことにある。それは、「私とは何か」についての問題なのである。
「私とは何か」 これです。
「自分が神だなんて信じられない・・・」そう思ってしまいますか?
ならば貴方は何者ですか? 人間と真実の生き方の冒頭にある
“人間は本来神の分御霊であって、業性ではなく・・・” 
これを否定しますか?

一度、空想で自分の名前を捨ててみるのも面白い。
名前のない自分は社会と切り離した自分、ただの「私」という意識。
存在するのみの「私」。

社会に合わせて活動する「私」は消えてゆく姿の私、
では 社会から切り離した名前のない この「私」とは・・・? 

こんな空想も面白い♪

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「私」は如何様にでもワープしつつ、至高の神に同一化する。これが「我即神也」とその印の意味だ。「私」の可能性のことではない。「私」の将来性のことではない。「私」そのものの姿のことを言っているのだ。そのワープが今まで出来なかったのは、ただ自分がワープを選択しなかっただけだ。選択肢があることを知らなかっただけだ。
「まだ我即神也には自信がないけど、近い将来 自分は我即神也に相応しい人間になれるだろう・・・」と 棚からぼたもち みたいに神性が天から結果としてもたらされる・・・なんて思っているでしょうか? 


神性、我即神也 は一瞬一瞬の自己意識にかかっている。
だから「今」を生きなければ・・・と感じている今日この頃です。。。

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by mppoe-light | 2010-02-28 20:40 | ピタゴラスさん啓示録から