因果律を強制終了☆

白光誌1月号の昌美先生のお話から

今まで人類が長い間自らの魂に刻印しつづけていた業因縁の法則、即ち「これこれの悪業を為しつづけてきたから、よってその償いや報いを受けなければならない」という法則は、本来ないのである。
これは真理の法則ではなく、その時代、その背景、その歴史の中で築き上げられていった人為的な法則(ルール)なのである。長い間、人類はそのことに気づかず、ルールに惑わされつづけてきた。


昌美先生の法話とピタゴラスさんの最新版2つを読んで、頭の中がすっきりしてきました。 ばらばらだったピースが、一つにまとまった感じ。全体の形が観えてきたような・・・。
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↓長いけど、カタイけど、ど根性で読んでほしい・・・・。

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三次元的思考と四次元的思考の違い

『三次元の物質世界は、四次元世界の断面に過ぎない。その四次元世界も、今ここに厳然と存在しているのである。』(注1)2001-1

 三次元的思考とは因果律の思考である。四次元的思考とは果因律の思考である。
科学的な思考は仏教的なカルマを認めていない。しかし、科学的思考も因果律を究明する学問なのである。

唯物論的思考も仏教的因果律の思考も三次元的なことに変わりはない。いずれも知覚領域が限定されている。
三次元的思考では、四次元的世界から見れば、現象世界と言われるごく一部の領域がすべてなのである。知覚領域、思考の根拠となる世界が自我と言う小さな領域に限定されているのである。
三次元的思考は、その限定された領域での因果関係をすべてとする。


 三次元的思考で、「私は神である」と認めることは、断じて出来ない。「私が神になる」には無限の努力が必要になる。「私は神でない」因果を浄めて消すにも無限の時間を要する。
個人の問題だけでははい。「世界が平和である」と認めることは、断じて出来ない。「世界が平和になる」には無限の努力が必要になる。「世界が平和でない」因果を浄めて消すにも無限の時間を要する。

 そもそも、三次元的思考や因果律は神の創造の結果ではない。それは、「私は神などではない」という無知なる意識の産物にすぎない。
逆に、四次元的思考や果因律は神の創造の世界である。神そのものである。それは、「我即神也」という大叡智の意識の産物である。
 三次元的思考と四次元的思考の関係は闇と光の関係である。無知と真理の関係である。二つ同時に在ることはない。一方のオンは他方のオフである。一方のオフは他方のオンである。

次元の上昇はすべて、自己意識の転換によってなされるのである。
現象と過去を根拠に、「自分を神ではない」と自分を意識するのか。
『今ここに厳然と存在する』神なる自分を根拠に、『我即神也』と自分を意識するのか。二つの選択肢がある。どちらを選択するかによって、三次元世界に閉じ込められるのか、四次元世界に飛翔するのかの違いになる。
なすべきは、『我即神也』を追認し、自分の『神の姿』を言葉にして語ることだ。
言葉にして語ることは、言霊による現実世界の創造である。神性顕現である。
自分の『神の姿』は宇宙神の直接的で完璧な映しである。
あなたの何十年も続いた癖、遺伝、持病、感情、、、そんなものは譬えて言うと1V(ボルト)の力もない。あなたの『神の姿』には100億V以上のパワーと権限がある。それを認めることだ。

心から認めるのは、多少のリハビリが必要かもしれない。
心から認めることが出来なければ、言葉を唱え続けることだ。それは真の祈りであり、神語である。
『私』の祈りと同時に、人類の祈りをするのだ。人に神語を語りかけるのだ。自我の『消えてゆく姿』が出た直後であろうと、すぐさま、真我の『神の姿』を口に出すのだ。『神の姿』は既に成就している。
凡夫が神に成長することはない。凡夫の姿を『消えてゆく姿』にするや否や、真我の『神の姿』を言葉で讃え、感謝し、崇敬するのだ。              
注1  2001-1      


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維摩詰が説くイエスの全託
『私の願い通りではなく、神の御心のままになさしめ給え。』(マタイ伝26)
『御心の天になる如く、地にもならせ給え。』(ルカ伝22)
『天の父が完全なる如く、あなたがたも完全でありなさい。』(マタイ伝5)
 
維摩詰がイエスの全託についてかくの如く説かれました。

 真理の道は自力も他力もない絶対力だ。神力だ。それは全託だ。この全託の姿勢に、ナザレのイエスが極めた「果因説」の基本がある。
神の御心とは『自分を完全と見る神の意識』のことだ。この神の意識に写る『神の姿』は変化しようのないものだ。『神の姿』は宇宙神の光そのものに包含される光である。宇宙神の生命そのものとは分離不可能な生命の流れである。したがって、我々、人類一人一人は宇宙神を直接かつ完璧にコピーした存在だ。それについて、誰も変化させることはできない。

 この真理を忘却したところに、「私の願い、地の私の信念=人間不完全説」が覆いかぶさったのである。
これは「過てる自己意識」である。そこからあらゆる不調和が生じた。
イエスは上に引用した言葉で、「この因果律を手放します」と宣言したのだ。「私は、因縁因果の流れの中で生きるのではありません。元々ある完全な『神の姿』を顕現する果因説の中で生きます」と宣言したのだ。
イエスは宣言したことによって、その通りの人生を歩むことができた。奇跡も行うことが出来た。奇跡的な治癒力は神力であり、絶対力である。それは果因説を高度に使っているのだ。つまり、全託とは因果説の生き方を放棄して、元々ある『神の姿』をあるがままにこの現象世界に顕すことなのである。

我々、人類一人一人にも神力・絶対力を使う権限・特権が生れつき備わっている。特殊な人の特殊な能力ではない。自然な人の自然な能力なのだ。
『神の姿』がそのまま顕われるように、「自我の余分な自己意識を手放します」と宣言しなさい。それが「神の栄光を讃える」ことになる。自分を讃えることだ。イエスは奇跡的治癒を行ったあとで、「神の栄光が讃えられるためだ」と言った。

奇跡をなすことが栄光なのではない。完全な『神の姿』が『今』我々一人一人のために存在すること自体が、神の栄光なのだ。神の栄光は自分の栄光でもある。そして、人類一人一人の栄光でもある。神の栄光も、自分の栄光も、人類一人一人の栄光も顕われ、讃えられるべきだ。その栄光の『神の姿』が自分にも人類にも顕われる。これが、「神の栄光が讃える」ことの意味だ。

我々、人類一人一人には神性顕現を妨げるすべてをデリート(手放す、パソコンにあるデリートキーと同じ)する権威・権限・特権が備わっている。それを妨げるものを浄化することもない、単に真理を認めるとき、非真理は消えるのである。
光明があるところに闇はない。五井先生はこの原理を一般の人にも解かり易く、受け容れやすく、実行しやすくするために『消えてゆく姿で世界平和の祈り』を説かれたのである。五井先生ほど人間を理解して下さった方はいないのである。

 しかし、白光の教えは年々進化している。今日的に求められることは神語を語り続けることである。五井先生は顕すべき『神の姿』をすべて含めたものとして、世界平和の祈りを説かれた。それを敢えて具体化して神語として語るのである。

人類一人一人には完全な『神の姿』がある。人類はそれに気づかなかった。知らなかった。それについて語ろうとも思わなかった。それがために、自らを因果律の中に閉じ込めてきたのであった。
今や、その因果律を解き放ち、神を讃え、自分を讃え、人類を讃えることによって、神性を顕現する時代になったのである。
因果律を手放したとき、神性の顕現は始まる。
西園寺昌美会長は、デリートキーを使って(パソコンではCTRL キーとALTキーを押しながらデリートキーを押して強制終了する)、因果律のシステム自体を強制終了させようとしておられるのである。
デリートキーは果因説の光明。CTRLキー、ALTキーとは印、マンダラ、神語を語ること、神事等のことである。そのキーを押すのは各自である。
ピタゴラスさん啓示録
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輪廻転生説や因果応報説、因果律は、もはや人類の負の遺産となってしまった。
21世紀、人類はみな果因説に向かって、人生の方向転換を計る時に至ったのである。
それをリードしてゆくのが神人たちの天命であり、役割である。(1月の法話から)

人類が、カルマの悪循環から抜け出し自己意識を次元上昇するために、
昌美先生は、因果律のシステム自体を強制終了させようとなさっています。
そのための印、神事、そして今年、神語を語る課題が出されました。
これは私たちの天命であり、役割。

と、言うことで
長い日記を読んで下さってありがとうございました☆

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私はすっきりしました♪ 頭の中の、断片的だった理解がキレイにまとまった。
私は嬉しいー♪
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by mppoe-light | 2010-02-20 23:09 | ピタゴラスさん啓示録から