「踊る物理学者たち」から☆part2

私たちが学校で習った原子のモデルは、太陽系みたいに、中央に原子核があってその周りを
惑星のように電子が回っている ものですが、

「学校で教えられ、いや詰め込まれているので、こういう原子モデルはおなじみのものであろう。
残念ながら、この考えは時代遅れなので、全部忘れてよろしい。現在の考え方を以下に述べよう。」

と、いうことで このあとボーアの原子構造論の説明が4ページほど続くきます。
が、長いので、さくっとカット☆ 

考えてみれば・・・原子の構成を誰も自分の目で見たことないわけで、計算上の存在。 
だから物理学の実験って、思考実験ばっかりなのか~、なおさら一般人が分かるわけない!!!

物理学には、理論物理学と実験物理学があって、日本が筑波あたりでやってる、高速加速器で素粒子同士をぶつけて壊して中から飛び出た小さな粒子を探すのは、実験物理学。 数年前にニュートリノ(だったっけ?)を発見してノーベル賞を受賞した あれも実験物理学。 
理論物理学は、実験物理学者でも歯が立たないほど難しいものなのだそうです。

いったいどんな頭脳の持ち主なんだろ~。。。(;一_一)
ちなみに、数学の世界でも 4次元、5次元 と研究が進んでるそうですが、近年になり物理学者と数学者が互いに協力し合うようになってきてるそうです。 
(今まで別々だったのが素人には不思議!)

前置きが長すぎました・・・先に進まねば。。。。。
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”観察者”についての説明になりそうな部分を、アバウトに抜き出してみました。
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事の本性上、我々は位置と運動量のどちらか一方しか知ることは出来ないのだから、どちらを知りたいのかは、我々の選択の問題である。
これは、形而上学的には、属性を測定するのを決めるのは我々なのだから我々がそれを創造しているのだ、と言うのにほぼ等しい。
言い換えれば、ある位置を占めるもの、例えば粒子を我々は創造できる。なぜならば、何か位置を占めるものがなければならず、位置を決めるのは我々なのだから、結局我々がそのものを創造していることになる。

宇宙は、奇妙な意味ではあるが、人が関与することによって「存在するようになる」のだろうか?
決定的な行為は関与するということである。


「客観性」という神話

科学的客観性という考えは、「こちら側」「私」があり、「あちら側」に外的世界があるのだ、という仮説に基いている。(こういう感覚は、他人を「あちら側」に置くもので、「こちら側」がとても寂しくなる)
この考えでは、大自然もその多様な一切合財を含めて「あちら側」にある。
科学者の課題は「あちら側」を出来るだけ客観的に観察することになる。
客観的に観察するとは、対象を偏見なしに観察することである。
(省略)
つまり前もって意見を持たないということである。実は意見を持たないなんて不可能である。意見とは物の見方である。
何も物の見方なしでいられるなどという見方をすること自体、すでに一つの物の見方である。

新しい物理学、量子力学が我々にはっきり教えてくれたのは、実在を変化させないで観察することは不可能であるということだ。
粒子の衝突実験を観察する場合を考えてみると、我々がもし観察してなくても結果は同じであったかどうか、確かめる方法がないということに話はとどまらず、そもそも我々が観察していたことが実験結果に影響しているのだから、観察していなかったら結果は別のものになっていただろうということしか知りえないのである。

光が波のようなものであることを示す実験もあり、光が粒子のようなものであることを示す実験もあって、両者に甲乙をつけられない。
光が粒子に似ているか、波に似ているのか、どちらかを証明したければ、目的にかなった実験をすればよいことになる。
量子力学によると客観性などというものはない。世界像から我々自身を取り除くことはできない。我々もまた自然の一部であって、自然を研究している際には、自然が自然を研究しているという事実を迂回して避けることはできない。(略)

物理学は意識構造の研究ということになる。

素粒子レベルでは、対象は観測されることによって必ず変化してしまう。世界に対して影響を与えないでありのまま観測できる観測者が世界の外側に孤立して存在することはないのである。


古典物理学の前提は、実在世界が厳密な因果法則に従って空間と時間の中で我々とは孤立に推移しているということである。
世界には感づかれることなしに、そのありのままを我々が観察できるだけでなく、初期条件に対して因果法則を適用して未来を予言することができることになる。
ニュートンの運動法則を個々の粒子に適用することはできない。粒子の位置や運動量の初期条件がわからないからであり、これこそが不確定性原理が示していることであった。つまり、ニュートン力学の法則を適用できるような仕方で素粒子を知ることは原理的にも不可能なのである。

電子のビームを考えるなら、所定の時刻、所定の場所での電子の分布を予測することは量子論にとって可能であるが、個々の電子がどうなるかを予測することは原理的にも不可能である。因果的な宇宙観は不確定性原理によって根こそぎにされた。
これに関連して、ニールス・ボーアは、量子力学が本質的に次のような結果を伴うと述べている。
・・・(それは)古典的な因果律の考え方をきっぱりと放棄する必要性と物理的実在について我々の態度を根本的に改めることである。

新しい局面
素粒子の世界に入れば科学ももはや「厳密」ではない。客観と主観の境界線は消えた。
自然が姿を現す玄関口は、自然の推移に対して無能で受動的な傍観者「私」であり、我々は、つまり取るに足らない我々は、その一人だと思われていた。
だが、自然という大機械の中の歯車のはずだった人間が、今こそ宇宙の創造者になるのだ。
新しい物理学によって我々がどこかへたどりつけるとしたら、それは我々自身へ向かうことであり、当然のことだが、我々が行けるのはそこだけしかないのである。

「踊る物理学者たち」 ゲーリー・ズーカフ著 青土社


最後まで読んで下さって有難うございました。 
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by mppoe-light | 2010-02-14 10:25 | 真理について思ったこと