啓示録スタート☆

今年に入って最初の”ピタゴラスさん啓示録から”です。

今月に入ってから お人形の新作やら、祈りの会の新しいプログラムなど・・・
で、なかなか啓示録を読み直すことが出来ませんでしたが、
お人形も完成して(祝!納品♪)、祈りの会の新規プログラムも
メンバーの合意が得られたので、またじっくりパソコンに向かうことにしました。
良かった良かった☆

祈りの会は、月2回、平日の夜。
なので、あまり長い時間は行なえません。そこで
世界各国の祈りを中心の会と、祈りや印など行を中心にした会とプログラムを分けました。
実際にやってみたところ、
体が軽くなった、 などなど・・・みんなに喜んでもらえました。よっしゃー! 
ただ、
進行係の私は、
意識が神意識に高められるように、流れが散漫にないよう
心がけることで頭がいっぱいなってしまい、何も感じられませんでした・・・(^_^;)
ま、いいか~。

我即神也からすべてが発する

私は誰なのか。これは究極の問いである。この問いに対して、我
々は瞬瞬、答えを宣言する必要がある。祈るとは、その答えを宣言
することである。

「私は神ではない」とする記憶、自他の発言、現象による証拠が
あったように感じられるかも知れない。私は、「それら一切が空で
ある」とする神の無限なる愛と赦しを受け入れる。私には常時、神
の無限なる愛と赦しの大光明が降り注がれている。

私は私として、今ここにある。
神そのものとしてここにある。
我即神也。いと素晴らしき存在。尊き存在。
生命そのもの。真理そのもの。道そのもの。

私が神であるならば、人類もしかり、人類即神也。
生きとし生けるものすべてもしかり、世界人類即平和也。
私はすべての国を祝福する。すべての国即平和也。
私は万物に感謝する。太陽さん、空気さん、水さん、大地さん、
火さん、、、、ありがとう。

我即神也よりすべてが発し、
我即神也よりすべてが生起する。
素晴らしきことしか発しない。
神に相応しいことしか生起しない。

因縁因果の現われの自分は神らしくはなかったかも知れない。
因縁因果の自分は100点満点で20点、30点だったかも知れない。
他の人より優れていた、あるいは劣っていたかも知れない。
しかし、我即神也の自分は因縁因果の中の自分とは全く関係ない。

今日、人類はその因縁因果とは全く異次元の流れの中に入り始め
た。
新しい流れとは:
我即神也よりすべてが発し、
我即神也よりすべてが生起する。
素晴らしきことしか発しない。
神に相応しいことしか生起しない。

08/07/19


衣服に縫いこまれた宝玉

『法華経』にある一つの例え話を元に、「我即神也」の意識を深
めて行きましょう。


『ある男が金持ちで裕福な友人の家を訪ねた。二人は酒に酔い、
寝入ってしまった。友人は、目覚め、用を思い出し、出かけて行っ
てしまう。その時、友人はこの男のために値がつかないほど高額な
宝玉を、男の衣服の端に縫いこんでおいた。しかし、この男は長ら
くそのことに気づかず、貧乏な生活を続けていた。

しばらくして、この二人は再会する。
友人は言った。「このように、宝玉を衣服の
端に縫いこんでおいたのだよ。貧乏しているのは馬鹿げている。
宝玉を売って、金で買えることは何でもしなさい」と。』(注1)

無明、迷いとは「自分が誰であるか、何者であるかを忘れている
こと」である。
自分の遺産と血統を忘れたことである。
正しい自己意識の忘却である。

衣服に縫いこまれた宝玉とは、「仏になれる可能性」程度のことで
はない。
仏性そのもの、神性そのもののこと、である。
無限なる愛、叡智、歓喜、幸せ、、、、、そのものである。

宝玉の譬えは「我即神也」の真理そのものである。
「人類即神也」の真理そのものである。
人間の本心のことである。

自分の神性を認めない者は、神性の無い世界を体験する。
自分の神性を認める者は、神性の世界を顕現し、体験する。
これは観察者効果である。

自分の神性を認める者は、人類の神性を認める。
我即神也を知る者は、人類即神也を知る。
人類即神也を知る者は、人類に自らの神性に目覚め、神性を顕わす
よう促す。

我即神也を知る者は、自分を尊ぶ。
自分を尊ぶ者は、人類を尊ぶ。
そして、人類に自らを尊ぶよう促す。

煩悩(衣服)に蔽われた宝玉を見ることは、本心を見ることである。
本心を見ることは、愛であり赦しである。
本心を見るのは想像力であり、心の眼である。

宝玉は鉱山に捜し求め、磨き上げるものではない。
宝玉は既に我々の内に、輝いている。
その光り輝く宝玉( 神性)より始めるから果因説と言う。

我々は神性そのものである。
我々は神性を言葉・想念・行為に顕現する存在である。
神性のみを顕わすことが天命である。

今日も、我々は自分が誰であるか、何者であるかを明確に宣言する。
そして、因縁因果の自分とは決別する。
我々は自分で宣言したとおりの自分を顕わして行く。

神事と印がある限り、「我即神也」の探求は単なる観念論ではすま
ない。
この探求は、今日、まさに人類一人一人がなすべきものである。
この探求によって、我々は「我即神也」の意識を育て上げ、確実に
その信念を深めている。
『「我即神也」の信念こそが、
自らの新しい人生を書き換え、創造している。』(注2)

2008/07/24
注1 『法華経』五百弟子受記品衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬え
注2 西園寺昌美会長白光誌2008
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ピタゴラスさん啓示録から
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神事と印がある限り、「我即神也」の探求は単なる観念論ではすま
ない。
この探求は、今日、まさに人類一人一人がなすべきものである。
この探求によって、我々は「我即神也」の意識を育て上げ、確実に
その信念を深めている。
『「我即神也」の信念こそが、
自らの新しい人生を書き換え、創造している。』

ずっと印を組んでいると、”組むように指導されたから組んでいる状態” になって
なんとなーく組んでしまうんですが、
こういった言葉を読むと 目的意識がはっきりして、やる気がでます。

「我即神也」の意識を育て上げ、その信念を深める、その信念が人生を書き換え、創造する!

素晴らしい!  
 私は無限なる愛である、無限なる調和で、輝きで、清らかで気高い!
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by mppoe-light | 2010-01-28 19:08 | ピタゴラスさん啓示録から