「我(私)」、私が発する「私」

昌美先生の著書 「次元上昇」から

今日まで人類が創造してきた言葉は、何億という膨大な数にのぼりますが、
その何億という言葉を、地球人類は平等に自由に使用することが出来ます。

ただし、たった一つの言葉を除いては、の話であります。

このたった一つの言葉を発することの出来るのは、地球人類の中でたった一人、自分だけです。
神さえも発することが出来ません。
このたった一つの言葉を発する者以外は、他の誰をも、この言葉を使用することは出来ないのです。

その言葉こそ「我」という言葉であります。 この我は私です。私そのものです。

他のいかなる人も自分以外のものに「私」という言葉で呼ぶことは決して出来ないのであります。

人類一人一人が自分の事を「私」と呼ぶ時、この言葉こそ魂の本源から響いてくるものなのです。
魂そのものが自らに与えることの出来る名前だからです。
この魂こそ本心です。 本心こそ神そのものです。

神そのものである自分の魂が肉体の自分のことを「我(私)」と呼ばせる時、
この「我(私)」を最高の存在者として認識しているのです。
魂は肉体の自分に対して神性をよみがえらせ、神性を語らせているのです。

 この「我(私)」と語る時、内なる小宇宙を指しているのです。内なる小宇宙は、絶対なる大宇宙と生命を共にしているのです。この小宇宙、「我(私)」に対しては、いかなるものも入ることも、侵すことも出来ぬ神の領域なのであります。
 ですから、自分のことを意識して「我(私)」と発する時は、魂のもっとも奥深い内なる部分から私という言葉が発せられ、響いてこなければならないのです。
自分だけが自らに与えることの出来る唯一の神性のひびきだからです。
人類一人一人はこの「我(私)」をとても大事にしなくてはならないし、尊ばなくてはならないし、愛さねばならないし、決しておろしかにしてはならないのであります。 

自分が発する「我(私)」という言葉は、神のひびきです。ということは、 “我即神也”そのものです。 
我即神也 の宣言そのものです。
 私が発する「私」という言葉が神そのものの言葉であるからには、決して否定的な言葉は一切使用できないはずです。私の責任において、私という神の名において不可能です。

 私が思う。私が望む。私が行なう。私が願う。私が欲する。私が・・・・。
これらの私という“私”の根源は、“我即神也”そのものであります。 
“我即神也”という意味が隠されているのです


(98年8月)




<ピタゴラスさん 啓示録から>

  私は在る

Now here I am. I am to be God.

(今ここに、私は在る。私は在る、神として。)
2008年、初めての啓示は何故だか英語だった。

Now here(今、ここに)は言い換えれば、「いつでも、どこでも」ということ。
『即』の意味と同じで、『いきなり、無条件』ということです。

そこに神性の永遠性、普遍性、無限性がある。それは抽象的な神性、雲の上の神性のことではない。
自分自身のことである。

条件が整ったならば、“いつか、いずれの地にて、私は神になり得る本質がある”。
このようなのん気な思考は『我即神也』の思考ではない。
そういう意識が悟りに導いてくれることはない。
「今、ここに、そのまま、なんの条件も付くことなく、私は神である」という意識こそが宇宙神の光明で
あり、我々が神を顕わすように導くのである。

『私は在る(Iam.)』という意識は、批判、非難、評価を下していない状態。
その意識の時は、いかなる価値判断もしていない。無念無想の状態。
それは神の意識である。神性の輝きである。

この意識は「宇宙神から放射された光が、今ここに、自分として輝いている」という状態だ。従って、『私は在る』(Iam.)は即ち、『私は神である』という意識そのものである。

『私は在る』と意識するや、間髪をいれず、つまり、雑念が入り込む前に、ここに在る自分は神そのものであると宣言しさえすればいい。この『我即神也』に至る方法を統一、日常生活の中で使ってみて下さい。

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我即神也を唱え、人類即神也を唱え、自己意識が高まるようになるほど、その後に生じる煩悩が気になるかも知れない。しかし、まさにそこに「消えてゆく姿」が威力を発揮する。

有限の煩悩に比べようもないほどの神性を発揮しようとしている人が、有限な想いに捉われることはない。
ギャップがあるのではない。自己矛盾ではない。偽善ではない。
神性と業想念とは全く別物なのだ。

あなたを責める神はいない。蔑む神はいない。怒る神もいない。常にそこにあるもの。常に一人そこで輝いている本心(宇宙神)があるだけだ。
あなたはカルマを見過ごさずに、そこにあるものを見過ごしてきた。消えてゆく姿を見過ごして、そこにあるもの、光り輝く本心を思い出しさえすればいい。汝はそれなり。

「我は、、、、Iam ….」と言う四次元軸を使うことによってのみ、人は神を顕わすことができる。
宗教の奥義に達することができる。

自己意識という四次元軸上で階段のように一つずつ上るのが、祈りである。四次元軸の上昇しつつ、上方から降りてくるものを「私である」と受け止めるのが、統一である。

上方からエレベーターのように降りてきた直霊が肉体を通して光を放つのが、印である。
印は神我一体の手段であると同時にその結果である。

努力して神に成る(to become)ということはない。
That I am.
我即神也を受け入れさえすればいい。何の許可もいらない。何の資格もいらない。何の経歴もいらない。
That I am
我即神也は実在するものであって、現にあるもの、久遠実成なるもの。
その神が四次元軸上を降臨すること、その神の降臨を受け入れることが悟りである。
神を思い出すことである。自己意識という四次元軸での上昇、降下を司るのはすべて「私は、、、
I am …」である。そこに管理し、時に顔をしかめる神はいない。

すべて自己責任の領域である。
自由意志の領域であり、自己の尊厳の領域である

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by mppoe-light | 2009-11-05 17:44 | ピタゴラスさん啓示録から