消えてゆく姿の次に顕れるもの

色即是空の次に顕われるもの

一切の余分な自己定義を無くすよう空の教えは言う。その後に残るものは在りて在るもの。
不空なる存在。直霊、如来、我即神也そのものだけである。
「闇が無くなると、そこに残るものは、初めからあった光しかない。
生地なる神なる自分しかない」という四次元的果因説のロジックだ。

(省略)<啓示録1>から
 色即是空の次に顕れるもの 
つまり 消えてゆく姿の次に何が顕れるのか・・・・
「闇が無くなると、そこに残るものは、初めからあった
光しかない。生地なる神なる自分しかない」

生地なる神なる自分、我即神也 です。

もう少し時代が進むと、消えてゆく姿という教えは少しずつ役目が終わりそうな気がする・・・。 
果因説の時代になると、光だけ、一元論だし・・・
と言っても、ぜんぜん必要が無くなる・・・訳ではないかな。

 “消えてゆく姿” という言葉はすごいと思います。
“すべては空” と言われても 現実に3次元世界は、目に見え、触れることの出来るリアリティの世界。
いきなり 空になれ と言われたら もーお手上げです。(^_^;)  

その点、消えてゆく姿 という言葉は、現象世界の迷いを受け入れてくれながら、、
その現実とぶつかることないように、想いを神さまへと運んでくれる。
いい言葉だなー、神さまの計らいはすごいなーと思います。


 四次元世界・印・果因説
四次元世界とは、三次元世界に意識次元を付加したものである。意識とは自己意識である。
つまり、「自分が自己を何である」と認識するかの意識が次元としての意味を持つ。

三次元世界とは因縁因果の世界である。想念の法則により現れ、消える。しかし、
自己=肉体、幽体という意識がある限り、結果としての現象は次なる原因となる。

その因縁因果は限りなく経巡る。凡夫の意識は凡夫の世界を創りだす。

しかし、「我即神也」の意識は厳然として存在する。三次元世界の凡夫であろうと、
「我即神也」を宣言したところには、時間の経過はあるものの、神なる姿が顕現する。

この神意識は三次元世界のものではない。神意識は四次元世界の意識である。
しかし、神意識は「私は、、、」と言う意識の座標軸を使って三次元世界と接点を持つ事ができる。

三次元世界に四次元目の意識次元を加えると、同じ三次元世界が幾通りにも変化する。

それは、平面の二次元世界に縦の三次元世界を加えると、同じ平面座標が縦の座標によって
幾通りにも変化するが如くである。

印は三次元の因縁因果の世界に意識次元の変換(上昇)を使って、「我即神也」の世界を顕現させる科学である。印を使うと、因縁因果の流れとは関係なく、「我即神也」という意識がその意識に相応しい
現象を三次元世界に顕現させてゆく。

この顕現も想念の法則を使って成就される。それは果印説と言われる。

因縁因果の意識次元では、凡夫―菩薩―如来という峻別された三様の変化を無限の努力によって勝ち取ってゆくことになる。
0点から100点まで努力によって積み上げてゆくことに価値が与えられる。
三次元の常識では、釈尊は出家して、悟って仏となられたのである。

しかし、法華経では、釈尊は出家して悟ったのではなく、久遠実成の仏が真実の実在と説かれる。
さらに法華経によると、常不軽と言う名前の菩薩は、相手が誰であろうと「わたしはあなたがたを軽蔑しません。
あなたがたは、みな、求道者の修行をしたまえ。そうなさるならば、あなたがたは完全な悟りに到達した如来になられるでしょう」と言い続けていた。その常不軽菩薩は釈尊の過去世であった。

三次元的な仏典解釈では仏典は釈尊の個人的な悟りへの来歴を語ったものである。
しかし、仏典は神話と同様に人類の真理の記憶を語ったものである。

久遠実成の仏とは「我即神也」のことである。常不軽菩薩の経歴は人類のDNAに記録された記憶である。
未だ「我即神也」を完成せずとも、「人類即神也、人類よ、汝ら皆即神也」と宣言し、人類を目覚めに導いてゆく我々会員のこれからの天命を示していると共に、我々一人一人の過去の記憶を物語っているのである。

四次元の理論の果因説では「大初に我即神也ありきとなる。
ことの初めに、100点の神なる自分がいた。それを思い出しなさい。
そうすれば、100点の姿がこの世に顕われるのだよ。それを成就する手段が印に他ならない。」と説かれる
。< ピタゴラスさん啓示録1から>

つづく☆
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by mppoe-light | 2009-10-20 19:36 | ピタゴラスさん啓示録から